なぜ国家は高齢者を支えるのか? 「昔も老人はいた」という疑問から考える
高齢者は昔から存在したのに、なぜ近代国家は年金や社会保障で老後を支えるようになったのか。家族扶養から社会的扶養への変化と、現役世代への跳ね返りまで考える。
この記事の結論
- 「高齢者は昔からいたのに、なぜ国家が支えるようになったのか」という疑問は、年金制度そのものより社会構造の変化を見る必要がある。
- 公的扶養以前も高齢者の生活費が消えていたわけではなく、本人・家族・地域などが負担していた。
- 国家が支援をやめても扶養コストそのものは消えず、家族負担、医療、住宅、治安、現役世代の離職など別の形で社会へ戻ってくる。
年金制度を考えていて、途中から別の疑問が出てきた。
そもそも、なぜ国家が高齢者を養う必要があるのか。
高齢者は1950年以降に突然現れたわけではない。
江戸時代にも明治時代にも老人はいた。
公的年金制度が十分に整っていない社会でも、人間は老いていた。
それなのに近代になると、
「高齢になって働けなくなれば、社会全体で一定程度支える」
という前提が制度の中に入ってくる。
なぜなのだろう。
最初は「老後は個人の選択でよい」と思った
私の出発点はかなり自己責任寄りだった。
現役時代に老後が不安なら、自分で積み立てればよい。
十分な資産を作った人は豊かな老後を送ればよい。
準備しなかった人は、その結果を自分で引き受ける。
どうしても生きられない人については、人権がぎりぎり保障される最低限の施設や生活保障だけ用意する。
そこまで割り切れば、現役世代から大きな金額を徴収して高齢者全体を支える巨大な制度は必要ないのではないか。
そう考えた。
これは感情論として「老人を見捨てたい」という話ではない。
なぜ本人の人生上の選択の結果を、別の世代が強制的に負担する仕組みになっているのか。
という制度設計上の疑問だった。
しかし「昔は国家が支えなかった」は、「誰も支えなかった」ではない
ここが重要だった。
公的年金がない時代にも、高齢者は食べ、住み、病気になった。
その費用が存在しなかったわけではない。
誰かが負担していた。
多くの場合、それは本人の資産であり、家族であり、親族であり、地域だった。
厚生労働省も、日本では公的年金が未成熟だった時代、高齢の親の扶養は家族内の「私的扶養」を中心に行われていたと説明している。
つまり、
国家が高齢者を支えない社会 = 高齢者を誰も支えない社会
ではない。
より正確には、
国家が負担を集約しない代わりに、家族など特定の人へ負担が集中する社会
だった。
家族扶養は一見すると自己責任だが、子どもには自己責任ではない
ここで私の考えが変わった。
仮に、老後の準備をほとんどしなかった親がいるとする。
「それは本人の責任だ」と国家が支援しなければ、その親は消えてなくなるわけではない。
食事が必要で、住む場所が必要で、病気になれば医療が必要になる。
では誰が支えるのか。
多くの場合、子どもに問題が移る。
親の家賃を払う。
生活費を送る。
通院に付き添う。
介護のために仕事を減らす。
場合によっては退職する。
ここで奇妙なことが起こる。
親の自己責任を徹底したはずなのに、その結果を負担しているのは子どもである。
子どもは親が老後資金を準備しなかったことを選んでいない。
それでも血縁関係によって負担が集中する。
これは本当に「自己責任社会」なのだろうか。
社会保障は負担を消しているのではなく、分散している
この視点に立つと、年金の意味が少し変わる。
現役世代から保険料を徴収して高齢者へ配るだけを見ると、
若者から老人への所得移転
に見える。
しかし家族単位で見ると、
自分の親を自分だけで扶養する負担を、社会全体へ薄く分散している
とも言える。
兄弟が5人いる家庭と一人っ子の家庭。
親が十分な資産を持つ家庭と持たない家庭。
親が70歳で亡くなる家庭と100歳まで生きる家庭。
子どもが高所得の家庭と低所得の家庭。
私的扶養だけなら、これらの偶然によって現役世代の負担は大きく変わる。
社会的扶養は、そのばらつきを社会全体へ広げる。
だから公的年金は、単に「高齢者を助ける制度」ではない。
高齢者を抱える現役世代のリスクを分散する制度でもある。
「高齢者を支えない」という政策にもコストがある
ここからさらに考える。
仮に国家が、
老後は完全自己責任です。公的年金は大幅に縮小します。
と宣言したとする。
国家の年金支出は減るかもしれない。
しかし社会全体のコストも同じだけ減るだろうか。
おそらく、そう単純ではない。
生活できない高齢者が増えれば、家族への仕送りが増える。
同居が増える。
介護離職が増える可能性がある。
住宅を失う人が増えれば住宅政策の問題になる。
医療を受けられなければ、救急や福祉の問題になる。
極端な困窮が増えれば、治安や地域行政にも影響する。
結局、
年金として払わなかった費用が、別の制度や家族負担として戻ってくる可能性がある。
ここが、私が最初に見落としていたループだった。
国家は「高齢者だけ」を支えているのではない
この問題を考えていて、最終的にたどり着いたのはここだった。
高齢者への所得保障は、表面上は高齢者にお金を渡している。
しかし、その効果は高齢者だけに閉じない。
親の生活費を全面的に負担しなくてよい現役世代。
親の介護だけを理由に仕事を辞めずに済む人。
高齢者の消費によって成り立つ地域の商店やサービス。
家族の経済状況に左右されず最低限の生活を維持できる社会。
そこまで含めると、年金は
「老人を養う制度」
というより、
「老いるという避けられない現象を、家族だけに背負わせない制度」
と見ることができる。
それでも「どこまで支えるか」は別問題
ここで注意したい。
社会的扶養が必要だからといって、
現在の給付水準、負担割合、受給開始年齢、世代間配分がすべて正しい
ことにはならない。
最低限の生活保障に限定するのか。
現役時代の所得にある程度比例した生活水準まで保障するのか。
資産を十分持つ高齢者にも同じように給付するのか。
現役世代の負担に上限を設けるのか。
これは別の議論である。
私が変わったのは、
「高齢者を支える必要があるか、ないか」
という0か1の部分だ。
最初は「基本的には本人の問題でよい」と考えた。
しかし考えていくと、高齢者を社会から切り離して本人だけの問題にすることは難しい。
高齢者が困窮すれば、その影響は家族へ、現役世代へ、地域へ、医療へ、行政へと戻ってくる。
なぜ国家が高齢者を支えるのか
私なりの答えはこうなる。
高齢者を支えることが無条件に善だから、ではない。高齢者を支えないことで生じる負担もまた、結局は社会の誰かが負担するからである。
老後のコストは消せない。
国家が負担しなければ、家族が負担する。
家族が負担できなければ、地域や別の公的制度に問題が移る。
だから問題は、
「高齢者を支えるか、支えないか」ではない。
本当の問題は、
必ず発生する老後のコストを、本人・家族・現役世代・国家の間でどう分担するのが最も合理的なのか。
ということなのだと思う。
そしてこの問いをさらに突き詰めると、
「そもそも、徹底した個人責任社会は成立するのか」
という、もっと大きな問題に行き着く。
参考資料
次に読む記事
なぜ年金は積立方式ではないのか? 「自分で払った分を自分で受け取る」で済まない理由
なぜ公的年金は自分の保険料を自分の老後のために積み立てる仕組みではないのか。賦課方式への素朴な疑問から、積立方式でも逃れられない人口・インフレ・生産力の問題まで考える。
個人責任社会は成立するのか? 自由と自己責任を突き詰めた先にあるもの
老後を準備しなかった人は本人の責任、と割り切れば社会は単純になるのか。年金の議論から出発し、家族、医療、介護、貧困、偶然のリスクを通して自己責任社会の限界を考える。
健康保険制度の全体像
日本の公的医療保険は、病気やけがの医療費を加入者全体で分担する仕組みです。会社員向けの健康保険、自営業者などが入る国民健康保険、原則75歳以上の人を対象とする後期高齢者医療制度などがあり、加入者は窓口で医療費の一部を負担します。
うつ病になったとき使えるお金・医療・仕事の制度【総まとめ】
通院費、休職、仕事が原因の発症、長期の障害、離職、生活困窮という困りごとから、確認する制度と窓口を探す。
労災制度の全体像
労災保険は、仕事中または通勤中の原因で労働者が負傷・病気・障害・死亡した場合に、治療や休業、障害、遺族などの給付を行う制度です。原則として労働者を1人でも雇う事業に適用され、保険料は原則として事業主が負担します。雇用形態にかかわらず労働者が対象です。
年金制度の全体像
日本の公的年金は、老齢・障害・死亡による生活上のリスクを社会全体で支える仕組みです。国民年金を土台とし、会社員・公務員などには厚生年金が上乗せされます。加入者が納める保険料、国庫負担、積立金などを財源として、条件を満たす人へ年金を給付します。