なぜ年金は積立方式ではないのか? 「自分で払った分を自分で受け取る」で済まない理由
なぜ公的年金は自分の保険料を自分の老後のために積み立てる仕組みではないのか。賦課方式への素朴な疑問から、積立方式でも逃れられない人口・インフレ・生産力の問題まで考える。
この記事の結論
- 「払った保険料を自分のために積み立てればよい」という疑問は、年金制度を考えるうえで自然な出発点である。
- しかし老後に必要なのは口座残高そのものではなく、その時代の現役世代が生産する食料・医療・住居・サービスである。
- 賦課方式と積立方式はリスクの現れ方が違うのであって、人口減少や社会全体の生産力低下から完全に逃れられる方式はない。
年金制度について最初に抱いた疑問は、とても単純だった。
なぜ、自分が払った保険料を自分の老後のために積み立てないのか。
もし現役時代に100を払い、それを運用し、老後に100と運用益を受け取るのであれば話は分かりやすい。
ところが日本の公的年金はそうではない。
現在の現役世代が払った保険料は、基本的には現在の受給世代への給付に使われる。厚生労働省も、公的年金を「世代間での支え合い」を基本とする賦課方式と説明している。
この仕組みを初めて真正面から見ると、当然こう思う。
次の世代が自分たちを支えるのなら、人口が増え続けることを前提にした制度ではないのか。少子高齢化になれば苦しくなるのは最初から分かっていたのではないか。
この疑問から年金を考え始めた。
積立方式の方が公平に見える
積立方式の魅力は明快だ。
自分が積み立てたものは自分のもの。
多く積み立てた人は多く受け取り、少なく積み立てた人は少なく受け取る。
世代人口が変わっても、若者から高齢者へ強制的に所得を移転する必要がない。
少なくとも「誰が誰を支えているのか」という点では、賦課方式より直感的に公平に見える。
私も当初は、
老後が不安な人だけが積立制度を利用すればよいのではないか。
と考えた。
自分の老後の準備は自分でする。国はそのための税制優遇や運用環境だけ用意する。それで済むようにも思える。
しかし、ここで一つ見落としていたことがある。
老後に食べるのは「30年前に作った米」ではない
年金をお金の移動だけで見ると、積立方式は非常に合理的に見える。
しかし老後に必要なのは、お金そのものではない。
食料、電気、住宅、交通、介護、医療、薬、衣服、その他のサービスである。
70歳になった自分が30年前に積み立てた1000万円を取り崩すとしても、その1000万円で買う食料を作るのはその時代に働いている人だ。
診察する医師も、薬を作る人も、介護する人も、発電所を動かす人も、物流を担う人も、その時代の現役世代である。
ここで見方が変わった。
年金の本質は「昔のお金を未来へ運ぶこと」ではなく、「未来の社会で生産されるものを、高齢者が受け取れる権利をどう配分するか」なのではないか。
積立方式なら世代間扶養が消えるように見える。
しかし実物経済で考えれば、高齢者はどの方式であっても、その時代の生産力に依存している。
1000万円の意味は30年後も同じではない
仮に全員が十分な金額を積み立てたとする。
それでも、将来の現役人口が大きく減り、介護職も医師も農業従事者も物流も不足したらどうなるだろう。
高齢者全員が十分な預金を持っていても、供給できる商品やサービスそのものが少なければ価格は上がる。
つまり、
お金を積み立てたことと、将来必要な財・サービスを確保したことは同じではない。
インフレも同じ問題を突きつける。
厚生労働省は、積立方式には運用収入を利用できる一方、インフレや運用環境悪化によって積立金の実質価値が影響を受けると説明している。賦課方式はその時代の給与から保険料を集めるため、物価や賃金の変化に比較的対応しやすい。
もちろん、これは「だから賦課方式が優れている」という意味ではない。
賦課方式には明確な弱点がある。
賦課方式は人口構造をまともに受ける
現役世代が多く、高齢者が少ない社会では、一人あたりの負担は軽い。
逆に現役世代が少なく、高齢者が多ければ、一人あたりの負担は重くなる。
これは逃げようのない構造だ。
だから私が最初に感じた、
「人口ピラミッドが崩れれば苦しくなる制度ではないか」
という疑問自体は間違っていない。
厚生労働省自身も、賦課方式では現役世代と受給世代の比率が変わると、保険料負担の増加や給付調整が必要になると説明している。
問題は、ここから
「では積立方式なら人口問題を解決できる」
と一気に進めてよいのか、ということである。
少子化によって社会全体の生産力が落ちれば、積立方式も市場価格、運用収益、インフレ、サービス供給不足という別の経路から影響を受ける。
人口問題そのものを、年金の会計方式だけで消すことはできない。
実は日本の年金も「純粋な賦課方式」ではない
日本の公的年金は賦課方式を基本としているが、保険料だけでその年の給付をすべて賄っているわけではない。
税金も入り、積立金も保有・運用している。
したがって実態は、
現役世代からの保険料 + 税 + 積立金
を組み合わせた仕組みである。
ここにも、単純な「賦課か積立か」の二択では捉えにくい現実がある。
それでも世代間格差の問題は残る
ここまで考えても、賦課方式への違和感がすべて消えるわけではない。
制度の初期に加入した世代と、成熟後に加入する世代では条件が違う。
人口構造が変われば、負担と給付の関係も変わる。
「自分が払った金額」と「自分が受け取る金額」が直接結びつかない以上、世代ごとの損得という問題はどうしても発生する。
だから年金を、
「自分のお金を国に預けて、老後に返してもらう制度」
と説明すると、制度への不信はむしろ強くなる。
そうではなく、
長生き、インフレ、所得喪失、家族構成、社会全体の人口変化というリスクを、世代をまたいで処理する社会保険
として見た方が実態に近い。
そのうえで、
どこまで世代間で負担を共有するのが公平なのか
を議論すべきだと思う。
「積み立てれば解決する」という話ではなかった
最初の問いは、
なぜ自分のお金を自分で積み立てないのか。
だった。
この問いに対する私なりの現在の答えは、
積立方式は個人の資産形成として非常に合理的だが、公的年金が扱っている問題は個人の資産形成だけではないから。
である。
どれだけ金融資産を未来へ移しても、未来の社会に存在する食料や医療や介護サービスを現在に作り置きすることはできない。
老後の生活は、最終的にはその時代の社会が持つ生産力に支えられる。
そう考えると、賦課方式が「若者から老人への理不尽な仕送り」にしか見えなかったところから、少し違う景色が見えてくる。
ただし、それは現在の制度設計を無条件に肯定することでもない。
むしろ本当に問うべきなのは、
社会全体で老後を支える必要があるとして、その負担をどこまで現役世代に求め、どこからを本人の積立に委ねるのか。
という境界線なのだと思う。
この問いは、次の「なぜ国家は高齢者を支えるのか」につながっていく。
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